きみはいつもそうだから
私はいつもそうだから
037:凍える微笑を貼り付けたまま、君はやさしく唄う
夜に沈んだ空には煌々と月が照る。その月明かりでさえかすませそうな派手な広告灯の瞬きは紅や碧、蒼から白と様々に色を変えた。明確な書面も決めごともない路地裏は日々流動的に縄張りが変わる。役所に提出はしてあって調べれば判るだろうがそんなものは虚構でしかない。持ち主がすでに代わりに代わって不在の場所も多い。電気の供給が止まるまで瞬く看板や広告灯は前の主の忘れもので誰も処分もしないし引き取りもしない。半永久的に暗闇に光を供するそれを瀧は茫洋と眺めていた。繁華街の裏通りなどこんなものだ。暴力と略奪とが物を言い、弱者は徹底的に奪われるだけだ。幸いと言うべきか瀧は偉丈夫であるから喧嘩を売られることは少ない。初見の威圧感が物を言うらしくたいてい見ないふりをされる。
そろそろ外套が欲しい時期だ。薄手の外套を羽織った瀧は目印である街灯に寄り掛かって相手を待った。忌まれる仕事をする瀧に好意的なものの方が珍しい。しかも肉欲さえも伴う。鹿狩雅孝。瀧は口の中で何度もその名を転がした。好きな女性がいたのだと話は聞いている。その女性がらみの事件で瀧と鹿狩雅孝は同じ団体に所属することになった。何処をどうたどったのか骨董商になり店を持った鹿狩は屋号の神狩屋を自身の呼び名として定着させて行った。その経緯に興味はない。知る必要も感じなかった。相手のことを知りたければ己のそれを明かさねばならなくなる。それが嫌だった。
「やあ」
同じように薄手の上着をはおった神狩屋が片手を上げて挨拶する。ちょうど瀧の視界に入る位置だ。洒落っ気のない格好なのも人の好さそうな穏やかさもいつも通りだ。角のない眼鏡の硝子がきらりと煌めく。寄りかかっていた外套から背中を引き剥がして瀧は歩きだす。神狩屋はその隣に並んだ。
「今日はちょうどよく面倒を見てくれる子がいてね。助かったよ、瀧との約束を反古にはしたくなかったからね」
神狩屋の同居人は世話をする人が必要な性質のものばかりだ。聞いた話では外部からの働きかけに無反応なものと記憶の維持が難しいものだと聞いている。どちらもまだ幼く、日常生活にはちょっとした手助けが必要になる。それを神狩屋がまかなっているらしい。
「恋人に会いに行くんだよって冗談で言ったら、今度紹介してくださいだって。あの子がそんなこと言うなんて意外だったなぁ。そう言うことには興味のなさそうな子だったから。驚いた顔を見せたら冗談ですって言われちゃったよ」
くすくすくすくすくす。神狩屋は喉を震わせて小鳥のように笑う。瀧は特別太っているわけではないが体つきが確りしている。丈もあるし目方もある。隣の神狩屋の方が余程華奢だ。それでありながら神狩屋は交渉における互いの役割を頑として譲らない。瀧の抵抗を封じるすべさえ持っている。結果として瀧は優位に立ち得る肉体を有しながらなすすべなく神狩屋に服従している。神狩屋の誘導は上手く、四肢を封じてから言葉巧みに抵抗の意志を殺いでいく。事に及ぶ際、瀧はすでに抱かれるつもりになっている。
路地裏をむやみに歩いてかなり奥深くまで来ている。通行人も真っ当な格好をしていても真っ当であるとは限らない。見た目と内容の不一致はありふれた誤差だ。だからこそ神狩屋の様な貧弱な男が瀧の様な偉丈夫を押し倒しても黙認される。手助けや温情は一切ない。事が終わるときと始まるとき、外部に変化は認められない。
「お酒でも飲むかい」
神狩屋は燕のように身を翻して戸を開けて入って行ってしまう。瀧は茫然とそこで立ち尽くすだけだ。暗がりへ引っ張り込もうとする手をはたき落とし蹴りを入れながら神狩屋の帰りを待つ。
「もう少し行ったら広場があるって。そこで呑もう。果実酒を買ってきたから」
要するに発展場である。ベンチは寝台の代わりになるし。植樹の作る闇はカーテンとなって芝生は布団の代わりになる。道順は覚えていない。方角だけだ。帰れなくなったらことなので方角だけは気を付けている。神狩屋の導きのままに歩くと確かに広場に出た。奇妙に透明度の高い噴水が設置されている。その噴水が事後の洗浄に使われているのは明白だ。ベンチではすでに肩を組んでいるものや茂みの中へ歩いていくものなどがいる。神狩屋が適当に空いているベンチを見つけると透明なグラスを二つからんと鳴らした。腰を落とした瀧の前にグラスが突きつけられる。
「下戸じゃないのは知ってるからね」
神狩屋がうーんと小首を傾げて唸る。グラスを受け取りはしたが肝心の酒をどうするのか。神狩屋が瀧の前に二つの壜を並べて見せた。丸ごとの檸檬が入ったものと肉桂のものだ。どちらも注ぎ口に濾し網がついていて果実や屑が流れ込まないようになっている瓶である。
「好きな方にしろ。どちらでも構わん」
神狩屋はしばらく悩んだ後に檸檬の壜を取って栓を開けた。きゅぽっと可愛いような音がしてからふわりと檸檬が薫る。神狩屋は瀧のグラスへ注いでから自分のグラスへ注ぐ。口をつけた瀧は一瞬くらりとなった。果実酒であると侮っていたがアルコール度数は高そうだ。酒精の薄い酒など路地では売れないと言うことだろう。それは子供の飲み物だ。神狩屋は平気な顔で何度も口をつけている。瀧も酒は嫌いではないから口をつける。檸檬のさわやかな酸味がすうっと気分を冷やして酒精が体を熱くする。喉越しが好いからいくらでも行けてしまう。グラスが空になれば神狩屋がすかさず注ぐ。酔いつぶすつもりかとも思ったがつぶれた男を抱いてもつまらんだろうし、意識のない状態をあれこれ心配しても仕方がないと瀧は酒を楽しむことにした。時折檸檬の酸味が舌を痺れさせる。
「なんだか、いい気分だねぇ」
とろんとした眼差しはこれからを暗示した。瀧は乱れない。不干渉なのではなくただ表層に現れないだけである。痛みも心地よさも人並みに感じはする。それを上手く表現できないだけだ。
「見てるよ、キスしようか。ふふふ、僕が女役だと思われてるんだろうねえ」
言うなり神狩屋が瀧の唇を奪った。落としそうになったグラスを手探りで持ち直す。神狩屋は何度も何度も食むように口付けを繰り返し、舌を圧し入れてくる。淫らがましく絡みつきながらちゅうちゅうと唾液を吸い、流しこむ。神狩屋に塞がれる前の一瞬に見えたのは同じく男の二人連れであったことだけ判った。
「茂みの奥が好いかい。それともここでしちゃおうか」
すっかり酔いが回ったように神狩屋が瀧にしなだれかかる。路地裏の交渉において互いの性別に対する侮蔑や配慮はまったくない。異性同性誰が何と寝ようと構わぬのが路地裏の決まり事だ。だからこそ女性性など微塵もない瀧と神狩屋の二人連れが見過ごされてもいる。
瀧は呑みさしの酒を神狩屋にぶちまけた。ぽとぽとと落ちる雫に神狩屋は何が起きたのか判っていないように無垢に濡れた髪や顔を触った。
「少し落ち着け。酔いが早くまわッ――」
がぢ。嵌めこまれたような音。刹那皮膚を裂き肉を割り骨の隙間を縫って突き刺さる激痛が瀧の体を奔りぬけた。グラスをおいた手に折りたたみナイフが貫通している。縫いとめられたそれに瀧は姿勢を変えることさえも出来ない。
「…――…ッぐ、ぅう……ッ」
びくびくと指先が痛みに痙攣した。ドクドクと脈打つ痛みと同時に出血が止まらない。視界の端に満ちていく紅。瀧はなるべくそちらを見ないようにした。己の特異体質が発動しては困る。神狩屋はそれさえも計算に入れている。瀧の反撃と特異体質の発動はイコールでつながるのを知っている。心的外傷を何度も味わいたくないのは人として当たり前だろう。心的外傷による特異体質であるから発動の際は、発動者にも負荷がかかるのだ。
「は、…――…はッ……」
荒い呼気に瀧の肩が上下した。酒精を含んでいたのがよくなかったか出血は止まる気配さえなく紅い滴が地面へと沁み出していく。ベンチの木目を通過して土へ沁みていく頃には黒い滴となっている。
「修司は悪い子だなぁ。人に呑みさしをかけるなんて、いけないよ? だから少し痛いお仕置きだ」
ぐり、とナイフが回転させられ肉を抉る。吐き気のようにほとばしりそうになる悲鳴を瀧は喉元で必死にこらえた。
「が、は…ッ!」
こみ上げた酸っぱい胃液を吐いて唇を噛みしめる。ぶづりと切れる音がして紅い線が瀧の頤から滴った。
「痛いかい? 泣き喚いてくれたらやめるのに修司は頑固なんだから。大丈夫だよ、今日はちゃんと避妊具も持ってきたから。後始末は楽にしてあげようと思ったんだ」
吐瀉物に塗れた瀧の頤を神狩屋は甘い菓子のように舐って拭った。
「修司は悪い子だからお仕置きだよ。少し痛くするからね」
神狩屋の手が外套の留め具を外してベルトのバックルを解いた。下着ごと膝まで引きずり降ろされる。外聞や周囲など配慮はあえてしてしないと瀧にも判った。瀧の体を折りたたむようにして膕を抑えられる。
「入れるよ」
悶絶するような激痛と吐瀉と胎内の熱が瀧の印象に残った。
「素直じゃないからこうなるんだよ、修司」
身支度をすっかり整え直した神狩屋はどこからどう見ても真っ当なお人よしだ。片手をナイフで縫いとめられたままの瀧は脱がされたズボンや下着を拾うことさえできない。空いた手で柄を掴むと一気に引き抜いた。ぱたたたッととんだ飛沫が瀧の頬へ紅い点を残す。軋む体で脱がされた衣服をかき集めると身につける。縫い留められていた傷は脈打つように傷んで触れるもの全てが紅く染まる。ハンカチを探り出して歯で裂いて包帯のように継いで巻いた。応急処置だ。それで身支度を終えた瀧に神狩屋は放り出されていたナイフを取るとあっさりと掌をざくりと裂いた。紅い線が引かれみるみる表面張力を超えて膨張し、ぼたぼたと鮮血が滴る。
「修司。僕の血を呑むんだよ。治りが早くなるからね」
これは神狩屋の特異体質だ。瀧はしばらく躊躇したがおずおずと神狩屋の手の平の傷を舐めた。苦いような鉄錆と噎せかえる生の匂いに胸が灼けた。こんな傷などなんとも思わぬことを生業としているのに、と思う。目を背けたくなるものをぶつぎりにする時と比べれば何でもない。瀧の能力を使用しての仕事は鮮血で怯んでいては話にならない。だから瀧は流血や傷口のひどさには強い心算だ。
れろ、と瀧の舌が神狩屋の傷口を洗うように舐る。膝をついて手の平を舐る偉丈夫の姿は歪んだ欲望の象徴のようでもある。その偉丈夫の身形は抱かれたばかりの色香を漂わせている。神狩屋はうっとりとそれを眺めて口元だけで微笑んだ。ハンカチを巻いた瀧の手がしだいに紅く染まっていく。行為による興奮が血の流れを促している。神狩屋は行為に関しては巧者で自分だけではなく相手まで楽しませる才がある。だが相手の了承を取ったりするような良心的なことを、瀧が相手の時はしなかった。神狩屋は問答無用に瀧を抱き、瀧がその後始末に慌てるのを見ているだけか、もしくは知らぬふりを通した。
「お仕置きは利いたみたいだね、いい子だ」
神狩屋の空いた手が瀧の頭を撫でた。黒髪の短髪がさらさら揺れる。瀧が神狩屋を見上げる。きょろりとした目の動きに神狩屋はほくそ笑んでいる。神狩屋の笑みはどこまでも人の好さを示すものでしかなく、油断を誘っても警戒はさせない。
「嫌だと言っても止めんだろう、お前は」
血で化粧された瀧の紅い唇に神狩屋が吸いつく。
「そんなことないよ? ただ僕は修司が好きだから修司にとって気持ちいいことをしてあげたいだけなんだ」
「負担がある」
「マイナス面が存在しない物事ってあるかな?」
にっこりと神狩屋は笑う。瀧は何も知らなければその笑顔だけで後へついて行ってしまうと感じる。警戒も威嚇もしにくい人の好い笑顔だ。無害であると思わせるに足るその性質の悪さを瀧は何度もその体で経験している。
「修司に見つめてもらえるなんて嬉しいなぁ」
「…馬鹿馬鹿しい」
瀧が立ち上がる。少しくらりとした。ナイフは貫通したから出血も多かったうえに交渉での受け身だ。体への負荷は想像以上で仕方ないかと思う。腰がギシギシいう。避妊具を持参したと言う神狩屋の言は本当でそれは実行してくれたので後始末が少し楽であった。
「もう一杯、いく?」
瓶にはまだ檸檬と同じくらいの残量があり、別に肉桂の壜もある。ハンカチをよこせと身ぶりで促すのを神狩屋は正確に読み取る。使用方法も心得ているのか惜しげもない。瀧が歯で何本かの帯状に裂き、継ぎ足して包帯のように手の傷に巻いた。瀧のハンカチはすでに血まみれでじわじわと雫が沁み出していた。落ちたグラスを取って土を払い噴水の水で濯ぐ。二人分グラスを持って瀧が戻ると神狩屋が水滴を煌めかせるグラスを受け取ってありがとうと微笑む。檸檬の酒を空けるほど飲む。ほんわりとした夢見心地だ。神狩屋は平気な顔で肉桂の酒の栓を開けた。ベンチの縁を使って器用に開ける。さほど強い力を必要としない開け方だ。
「修司が泣くのは可愛いね」
「痛かったが気持ちはよかった」
「素直な修司はもっとかわいいよ」
グラスを傾ける。肉桂の酒は檸檬のそれより少し甘い。
「次に呑むなら桂花酒が好い」
外国産の銘柄を口にすると神狩屋がくすくす笑った。
「これだって似たようなものじゃない。美食家ってのも困ったもんだね」
「冗談だ」
きょと、とする神狩屋が愉しくて愛しくて瀧はふわりと微笑んだ。
「騙されてくれるなよ」
あなたの笑いから冷たさが消えたら
私の嬌声に優しさが加わるでしょうか
「修司って天然だね」
意味が判らなかったので瀧は返事をしなかった。二人でしばらく酒瓶を空ける作業に没頭した。
《了》